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東京地方裁判所 昭和62年(ワ)13370号 判決 1991年3月28日

原告

村山章

右訴訟代理人弁護士

中村雅人

神山美智子

小島延夫

関智文

山脇哲子

吉田良夫

渡邊澄雄

被告

ジョンソン株式会社

右代表者代表取締役

本田隆男

右訴訟代理人弁護士

渡部喬一

赤羽健一

田中修司

逸見剛

帆足昭夫

藤原弘子

中村光彦

右訴訟復代理人弁護士

小林好則

主文

一  被告は、原告に対し、金七〇万円及びこれに対する昭和六〇年一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、金一二七三万六九八四円及びこれに対する昭和六〇年一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一本件は、主位的には、原告が、被告が製造、販売する家庭用カビ取り剤「カビキラー」の反復継続的使用によってカビキラーに含まれている次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウムなどの化学物質を継続して吸入した結果、慢性的に咳(タンを伴うもの、あるいは伴わないもの(乾いた咳))、咽頭部の焼けただれるような痛みや裂けるような苦しみ、呼吸困難、胸痛といった症状を伴う慢性気管支炎ないしはアレルギー疾患等(以下「本件慢性疾患」という。)に陥ったことを理由に、予備的には右カビキラーの使用により使用の度に次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウムなどの化学物質を吸入した結果、その使用直後にタン、咳、呼吸困難等といった症状を伴う急性気管支炎(以下「本件急性疾患」という。)に陥ったことを理由に被告に対して不法行為に基づく損害賠償(治療費金一一〇万一二二七円、入通院交通費金七万四二〇〇円、入通院諸雑費金三一万四八〇〇円、休業損害金四六二万二四〇〇円、逸失利益金二五〇万一五二七円、慰謝料金二〇〇万円、本件訴訟追行のために動物実験等を依頼した費用金二〇〇万円、弁護士費用金二一二万二八三〇円、合計金一四七三万六九八四円のうち金一二七三万六九八四円)を請求した事案である。

二争いがない事実

被告は、医薬品、医薬部外品、化学薬品、化粧品の製造、輸入、販売等を業とする株式会社で、家庭用カビ取り剤カビキラーを製造、販売している会社である。カビキラーは、次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウム、界面活性剤などを成分とするカビ取り剤であり、本件で原告が使用したカビキラーは、噴霧式(カビキラーに取りつけられたレバーを押すと、噴出口から霧状になった薬液が放出される。)ものである。

三争点

1  原告は、昭和五七年一〇月ころから自己の居住する鉄筋コンクリート造一四階建てアパートの七階の風呂場あるいは居間でカビキラーの使用を開始したが、同五八年一一月ころから本件慢性疾患に罹患し、現在に至るも改善していないか。

(一) 原告の主張

原告は、昭和五七年一〇月ころから同五八年六月ころにかけて、風呂場で三、四か月に一回位、カビキラーを使用したが、その度に咳き込み、喉や胸の痛みを覚え、同年九月下旬ころからは咳と少量のタンが出、歩行時に呼吸困難に陥るようになった。そして、居間でも一週間に一回位の割合で使用し始めた同年一一月ころからはカビキラーの使用直後にタンを伴わない咳が頻繁に出、咽頭部の焼けただれるような痛みや裂けるような苦しみを覚え、軽度の家事労働をしても呼吸困難に陥るようになった。同五九年三月ころには押しつぶされるような感じの胸の強い痛みを覚え、呼吸困難も激しくなって談話や日常の起居動作まで困難となり、安静にしていても息が止まりそうになるという状態になり、同月一五日には化学療法研究所付属病院(以下「化研病院」という。)に入院し、同月にカビキラーの使用を中止してからも、二年以上にわたって、右各症状は続いた。

本件慢性疾患は気道粘膜に不可逆的変化が生じたことが原因であるが、右は気管支内ではなく、細気管支内に生じているため器質的変化が通常の方法では発見されず、しかも細気管支内の繊毛が生え代わらなければ完治せず、生え代わるまでは身体に有害な物質に出会うと呼吸が困難になる等の状態が継続する。そのため、カビキラーの使用を中止してから六年たった現在でも、原告は身体に有害な物質に出会うと息苦しくなり、その体調は未だ十分に回復していない。

(二) 被告の主張

原告は徹底的に検査してみてはどうかという被告の提案により、昭和五九年七月三〇日から同年八月二七日まで二九日間にわたり、原告の希望する東京医科歯科大学付属病院(以下「東京医科歯科大学」という。)で精密検査を受けたが、その結果、原告の気管支を含む呼吸器関係にはなんらの異常も発見されなかった。したがって、およそ原告の気管支粘膜に不可逆的病変が存在していたとは到底考えられず、原告が慢性気管支炎に罹患していないことは明白である。

2  本件慢性疾患は、原告が、昭和五七年一〇月ころから同五九年三月ころまでの間、カビキラーを反復継続して使用したため、噴霧時に、口、喉、鼻、眼、皮膚からカビキラーの飛沫を大量に浴び、カビキラーに含まれている次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウムを吸入したことが原因か。

(一) 原告の主張

(1) カビキラーを吸入すると、その成分である次亜塩素酸ナトリウムの粘膜刺激作用、気道内に吸入された次亜塩素酸ナトリウムから発生する塩素ガスの毒作用及びカビキラーの成分である水酸化ナトリウムの毒作用によって、人の気道に傷害を与えると考えられる。そして、カビキラーの主成分である次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムは強アルカリで、生体組織を腐食し、粘膜を刺激してこれを損傷するものであること、次亜塩素酸ナトリウム水溶液のミスト(次亜塩素酸ナトリウム水溶液が霧状になったものをいう。)を吸入すると、気道粘膜を刺激し、しわがれ声、咽頭部の灼熱感、疼痛、激しい咳、肺浮腫といった症状を呈することが一般的に知られており、しかも、塩素ガスの急性及び慢性暴露による影響は本件慢性疾患の症状と酷似している。なお、ウサギに対して二ないし五mg/m3の濃度の塩素を九か月間反復暴露する実験では、体重の減少、呼吸器疾患罹患率の増加がみられ、モルモットで少量の塩素を吸入させる実験では、実験的結核症の過程を促進するとの結果が出ており、また、被告が行ったカビキラーの吸入毒性実験でも、実験動物に閉眼、洗顔動作、呼吸促迫、流涎、体緊張度の低下がみられるとの結果が出ている。

(2) そして、原告の本件慢性疾患は、カビキラーを使用し始めて数か月後から現れ始め、多量に使用し始めた昭和五八年一一月以降は症状も激しくなった。なお、カビキラーを噴霧すると、霧状となった薬液が使用者の方向へ拡散、飛散し、使用者が吸入するおそれが十分ある。

(3) しかも、原告には喫煙の習慣はなく、特に大気汚染のひどい地域に住んでいたわけでもなく、カビキラーのほかにはこれといった原因も考えられない。

この点、東京医科歯科大学の診断では、本件慢性疾患の原因として原告の肥満と更年期障害による影響が挙げられているものの、原告の肥満は昔からのもので昭和五八年に突如肥満したわけではないから、呼吸困難との関係はないというべきであり、更年期障害にはさまざまな症状があるが、通常呼吸困難、咳などは含まれていないから、右診断結果があるからといって直ちに本件慢性疾患の原因が肥満や更年期障害であると即断することはできない。むしろ、カビ取り剤の使用者の中からは、使用の際または使用直後に一定の被害を被ったとの苦情が多々寄せられているのである。

(4) 原告を診察し、その症状経過と考察に関する意見書<書証番号略>を作成した菅邦夫医師は、カビキラーが本件慢性疾患の原因であると指摘している。

(5) 本件のような化学物質による生体内への被害を科学的に証明することは極めて困難であり、科学的に疑いを入れる余地のない程度の証明を求めることは原告に酷に失すると言わざるを得ず、裁判における証明は通常人が安んじて行動できる程度の蓋然性をもって確からしさが肯定されれば足りると解すべきである。

(6) したがって、カビキラーを継続して使用すると、次亜塩素酸ナトリウムの粘膜刺激作用ないしは吸入された次亜塩素酸ナトリウムから発生する塩素ガスによる毒作用または水酸化ナトリウムの毒作用のために気道内部の障害、組織破壊が引き起こされ、次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムを反復継続して吸入すれば、呼吸困難、気道内部の障害、組織破壊が慢性化するおそれは十分にあるというべきである。

(二) 被告の主張

(1) カビキラーの主成分である次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムの原体または原液には強力な生体腐食作用等があることは原告の主張のとおりであるが、カビキラーは次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムを原体または原液のままカビキラーの薬液として使用するのではなく、別紙成分表記載のとおり、次亜塩素酸ナトリウムは昭和五七年一一月までは4.00(単位wt/%)、同年一二月以降は3.60(単位wt/%)、水酸化ナトリウムは0.90(単位wt/%)に希釈して使用している。しかも希釈効果による刺激性の減退は希釈された次亜塩素酸ナトリウムが飲料水や野菜、果物などの消毒に用いられ、体内に取り込まれている例から明らかであるから、次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムの原体または原液の有害性を取り上げてカビキラー自体の有害性の論証とするのは全くの誤りである。

(2) そもそも、カビキラーは、通常の使用方法、すなわち、換気に注意し、天井や高い壁面には噴霧せずに柄付スポンジ等を使い、酸性洗剤とは併用せず、万が一使用中に気分が悪くなったときは直ちに作業を中止するなどして使用する限り、人体への影響はない。

(3) 本件においては、東京医科歯科大学での診断で原告の症状の原因として肥満及び更年期障害が考えられるとされており、また、前記意見書(書証番号略)を作成した菅医師は気管支炎の専門家ではなく、原告の細気管支内に不可逆的病変が存在するのをどのようにして確認したのか全く不明で、右意見は推測の域を超えない。

そして、原告は次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムの抽象的危険を主張立証するばかりで、原告がカビキラーを使用した際の状況を前提としての慢性気管支炎に罹患したことについて具体的な立証がないから、原告がカビキラーの使用によって本件慢性疾患に陥ったと認めることはできない。

3  原告はカビキラーの使用直後に本件急性疾患に罹患したか。原告が本件急性疾患に罹患したのは、カビキラーに含まれている次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムを吸入したことが原因か。

(一) 原告の主張

原告は、昭和五八年一一月以降、カビキラーを使用した直後に、乾いた咳が頻繁に出、咽頭部の焼けただれるような痛みや裂けるような苦しみを覚え、軽度の家事労働をしても呼吸困難に陥るようになったのであり、カビキラーの使用と本件急性疾患との間には因果関係がある。

(二) 被告の主張

カビキラーには短期間の一過性の軽度の刺激があるが、咽頭部の焼けただれるような痛みや裂けるような苦しみを覚えたり、軽度の家事労働をしても呼吸困難に陥ったりするような毒性はなく、しかも、原告がカビキラーの使用により急性気管支炎に罹患したという医学的な証拠もなく、カビキラーと本件急性疾患との間に因果関係があるとはいえない。

4  原告が、カビキラーの使用により本件慢性疾患または本件急性疾患に罹患したことにつき、被告に過失があるか。

(一) 原告の主張

カビキラーに含まれている次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウム等の化学物質は人体に被害を及ぼすものであるから、被告はこれをカビキラーに使用するにあたっては、万が一にも人体に害を及ぼさないようにし、もし人体に無害であることが確実でないなどと疑われる場合は販売しないなどして人体への被害を予防し、また販売後に有害性が疑われた場合は直ちに販売を中止し、カビキラーの回収、マスコミ等を通じての警戒広告などを行い、もって人体への被害の発生を回避する義務を負っている。

しかるに、カビキラーの製造、販売を開始した当時、次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウム等の化学物質が人体への被害をしばしば引き起こしていることは明らかであったのであるから、被告はそもそもカビキラーの薬液として次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウム等の化学物質を使用すべきではなかったのに、それを怠り、漫然これをカビキラーの薬液として使用した。また、人体への被害を最小限にとどめるべく容器を泡式(カビキラーに取り付けられたレバーを押すと、噴出口から泡状になった薬液が放出される。)にするとか、使用者が次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウム等の化学物質を吸入する機会を少なくするような安全な使用方法、使用量を掲げ、呼吸に影響を及ぼした場合の処置を注意書として記載すべきであったのに、これを怠り、漫然これらの化学物質が人体に吸入される可能性の著しく高い噴霧式の容器に高濃度のまま入れ、しかも標準使用量を一平方メートル当たり約一五回という多量に設定し、さらに使用に際しては窓や戸を開けて換気するというように噴霧した薬液が使用者の方向に戻ってくるおそれがあるような使用方法を使用者にとらせる一方で、呼吸に影響を及ぼした場合は直ちに新鮮な空気を取り入れるなどといった処置を注意書として記載しなかった。したがって、被告には右注意義務を尽くさなかった過失がある。

(二) 被告の主張

次亜塩素酸ナトリウムは、飲料水、野菜、果物の殺菌、消毒、プールの水の殺菌、生鮮魚介類の鮮度保持、かまぼこ、はんぺん類の加工器具の消毒、酪農及び牛乳処理器具、畜舎の消毒脱臭、家庭用漂白剤、医療用消毒剤などに使用されており、使用方法と注意事項を守れば安全な薬剤である。

水酸化ナトリウムも染料、香料、医薬品や紙等の製造及び石鹸の製造等の原料、あるいは家庭用の油汚れ落としの洗浄剤に使用されている。

被告は、カビ取り剤の開発研究を行って、主成分には従来から家庭用漂白剤に使用されてきた次亜塩素酸ナトリウムを選び、風呂場等の広い壁面を処理するためにトリガータイプ(スプレーヤー)を検討し、泡タイプと消費者のニーズの高い霧タイプでも使えるものを開発して採用した。さらに細かい霧では壁面への付着量が少なくなるので、粗い粒子が得られるよう設計し、一方、カビキラーを使用する際、使用上の注意事項や使用方法が守られない場合、一度に大量に使い過ぎた場合のことを考慮して、成分が持つ特有の臭いを残したままにしていた。

そして、安全に使用してもらうため、当時、別紙使用上の注意書のとおり、製品の容器、外箱にきめ細かくわかりやすい使用方法、使用上の注意、応急処置等を記載し、わかりやすいイラストを表示した。

したがって、被告には何ら過失はない。

なお、カビキラーは家庭用雑貨品であって、食品、医薬品などと違い、消費者が直接体内に摂取するものではないから、カビキラーの安全性に対する注意義務は、必ずしも食品、医薬品の場合と同一には論じられない。

第三争点に対する判断

一原告の症状について

1  原告は、自宅の風呂場にカビが発生したので、昭和五八年二月ころ、テレビのコマーシャルで知ったカビキラーを購入して使用してみたところ、カビがよく取れた。その際、特有の臭がし、眼や鼻を刺激した。その後、原告は風呂場のカビ取りにカビキラーを使用するようになり、三、四か月に一回の割合で合計四、五回使用した。一回の使用に当たっては七、八回カビキラーの薬液を噴霧した。原告は、同年六月ころまでは、カビキラーを使用する度に咳き込み、喉や胸の痛みを覚えた。同年九月下旬ころから、その使用直後に咳と少量のタンが出始め、また、日常、歩くと息切れするようになった。同年一一月には原告方の居間の壁などに大量のカビが発生したが、カビが息切れの原因であると考えた原告は、居間でも一週間に一回程度カビキラーの使用を開始した。すると、使用した直後から乾いた咳が頻繁に出るようになり、咽頭部に焼けるような痛みを覚え、また、家事をする際にはひどく息切れするようになった。同じころ、原告は風をひき、熱が出たので、近所の小林クリニックに通院し、風邪の治療を受けたが、息切れ、乾いた咳、喉の痛みといった症状はなかなか改善せず、同年一二月九日にはカビキラーの使用後、呼吸困難になったため、救急車で寿康会病院に運ばれ、治療を受けた。同病院は原告の症状を風邪と診断して皮下注射と投薬による治療を行い、原告は同五九年二月まで同病院に通院し、レントゲン検査等を受けたが、異常は見当たらなかった。しかし、症状の改善がみられなかったため、同年三月一五日、千葉県市川市にある化研病院の診察を受け、呼吸困難の精密検査のため、同月二九日から同年四月二二日まで同病院に入院した(<証拠略>弁論の全趣旨)。

2  原告は、化研病院に入院した際、呼吸困難(平地歩行も健康人並みにはできないが、自分のペースでなら一キロメートル以上は歩ける程度であった。)咽頭部の焼けるような痛み、胸の痛み、咳といった症状を訴えていたが、入院六日目から気管支拡張剤の投与を開始すると、咽頭部の痛みと胸の痛みはなくなり、呼吸困難も軽減し始めた。しかし、入院中に試験的に一晩自宅に戻ったところ、再び入院時にみられた呼吸困難に陥った。同病院では、原告の主訴、その後の診療経過、検査結果などから、間質性肺炎、(<証拠略>によれば、肺繊維症とされている。)の疑いをもったが、原因を確定することはできず、病名としては労作時呼吸困難とした(<証拠略>)。

3  原告は、化研病院入院中に夫の話から、原因がカビキラーにあるのではないかと考え、退院後は、カビキラーの使用を中止した。しかし、呼吸困難は依然として改善せず、外出したり、家事をしたりすると息苦しさを感じ、特に体を曲げるなどの動作をすると、呼吸困難に陥り、外出して空気の汚れたところに出ると、呼吸が乱れるという状態が続いた。そして、原告は、同年六月ころには、消費者問題研究所を通じて、被告の担当者と話し合うようになり、被告の勧めで、同年七月三〇日から同年八月二七日まで、二九日間、原告の希望した東京医科歯科大学に入院し、徹底的に検査を受けることとした(<証拠略>、弁論の全趣旨)。

4  原告は、入院当初は仰向けでの会話時や前屈時(右はいずれも横隔膜の運動が制限される姿勢である。)に呼吸困難(同年代の健康人と同様に平地歩行できるが、坂道、階段の昇降は健康人並みにはできず、休み休みでないと昇れない程度であった。)、呼吸困難に伴う胸の痛み、咽頭部の不快感といった症状を訴えるとともに、タンを伴う咳や伴わない咳も出ていたが、入院後はネブライザーや投薬などの結果、右各症状の改善がみられた。そして、入院後一七日目(昭和五九年八月一五日)ころにはいずれの症状もほとんど消失し、入院後二二日(同月二〇日)に一旦帰宅した際には、家事労働や階段の昇り降りをしても呼吸困難等の症状は現れなかった(<証拠略>)。

東京医科歯科大学では、原告の呼吸困難の原因を解明するため、呼吸器系については呼吸機能検査、運動負荷試験、気管支ファイバースコープ、経気管支肺生検、ACE(アンギオテンシン変換酵素)測定、呼吸困難時の動脈血ガス測定、循環器系については心臓超音波検査、負荷心電図の検査を行った。しかし、経気管支肺生検では肺胞には病変はみられず、気管支ファイバースコープによって気管支内を観察したところ、気管支のうち亜区域支までの部分には炎症や粘膜損傷などの器質的変化は認められず、正常状態にあった。また他の検査による数値もいずれも正常範囲であり、ただ、呼吸機能検査によれば、原告には軽度の拘束性障害が認められ、%最大換気量(一分間に換気、すなわち、吸ったり吐いたりする運動をし得る最大量)は51.6パーセント(正常は八〇パーセント以上)であった。原告はアレルギー性鼻炎(スギ及びダニに対して陽性である。)に罹患しており、また、アストグラフによれば、軽度の下気道過敏性が認められた(この原因につき、同大学ではスギによる影響とも考えられるとしている。)。なお、同大学での原告の診察では、ときに熱感などの更年期障害の症状もみられ、原告は昭和八年二月二日生まれであるが、身長144.5センチメートル、体重五四キログラムで、標準体重よりも三五パーセントの肥満状態にあった(<証拠略>弁論の全趣旨)。

原告を診察した東京医科歯科大学の横田医師は、当初原告が感冒様症状を呈した後、乾いた咳、タンを伴う咳、呼吸困難などの症状が徐々に進行し、しかもカビキラーを使用した後に咳き込み、胸の痛みがあったとの原告の主訴から、その症状につきカビキラーによる急性細気管支炎の疑いを抱いた。また、原告の呼吸困難が横隔膜を制限する姿勢をとった際に現れることから、その原因として肥満による呼吸運動制限も考えたが、それでは原告の咳を説明することはできなかった。そして、前記各検査の結果に鑑み、間質性肺炎、過敏性肺臓炎、気管支喘息などを否定した上、呼吸困難については、前記各検査によっても気道内部に呼吸困難を起こす器質的疾患は認められなかったこと、%最大換気量は51.6パーセントで、横隔膜の運動を制限する姿勢をとると呼吸困難が起こること、原告は肥満状態にあったことから、その原因として肥満による影響が考えられるとし、また、更年期障害の症状が現れていることに鑑み、呼吸困難の原因として更年期障害による影響も考えられるとしたが、結局、原告の症状を統一的に説明する診断をすることはできなかった(なお、原告は昭和三〇年ころから同五六年ころまでに特に肥満したことはなく、また、更年期障害の症状には呼吸困難は含まれないから、呼吸困難の原因が肥満や更年期障害であるとはいえないと主張し、<証拠略>中には右に沿う部分が存するが、前記認定の東京医科歯科大学入院当時の原告の呼吸困難の程度、その発症状況等を考えると、直ちに原告の呼吸困難が更年期障害や肥満の影響であるとの横田医師の判断が誤っているということはできない。)(<証拠略>)。

5  原告は、退院後も二年間はときおり呼吸困難に陥ることがあったが、現在では無理をしない限り、家事をすることはできるようになった。ただ、現在でも動くと疲れやすく、外に出て地下鉄に乗るなどして汚れた空気を吸うと、タンが出たり、息切れがすることがある(<証拠略>)。

6 以上によれば、原告には、確かに前述のような咳等のあったことは認められる。

しかし、一般に乾いた咳、咽頭部の焼けるような痛み、呼吸困難などの症状が慢性的に生じるという慢性気管支炎に罹患している場合には、人の気道内に相当の気質的変化が生じているはずである(<証拠略>弁論の全趣旨)が、前記認定のとおり、原告が入院した各病院では慢性気管支炎との診断はなく、殊に東京医科歯科大学の検査では、原告の気管支には炎症、粘膜損傷といった呼吸困難などを引き起こす器質的変化は認められなかったのであり、二九日間にも及ぶ各種検査にもかかわらず、原告の病名を特定することができなかったのである。

そうすると、前記認定の事実から、直ちに原告の前記症状が慢性化し、原告が慢性気管支炎あるいはその他の慢性疾患に罹患していたとまで認めることはできないといわざるを得ない。

なお、原告は、原告の損傷は気管支の亜区域支から先の部分に存すると主張し、<証拠>中には右主張に沿うような部分があるが、推測の域を出ず、前記各病院における診断に照らしても、直ちに採用することができない。

他に原告が本件慢性疾患に罹患していたと認めるに足りる的確な証拠はない(なお、アレルギー性疾患との関係は後述のとおり。)。

7  そうすると、その余の点につき判断するまでもなく、原告がカビキラーの使用により、本件慢性疾患に罹患したことを理由とする損害賠償請求は理由がない(なお、原告が主張する本件慢性疾患という症状とカビキラーとの因果関係については、後記認定のとおりである。)。

二カビキラーと原告の本件疾患との因果関係について

1(一)(1) 次亜塩素酸ナトリウム(NaClO)は、無色ないし淡黄緑色、透明で塩素の臭気を有し、通常水溶液で存在し、一般に市販されているものは有効塩素四ないし一二パーセント(次亜塩素酸ナトリウム3.94ないし10.76Wt/%)である。次亜塩素酸ナトリウム水溶液は不安定でpH6.5ないし7.0の状態では、塩と酸素に分類されるので、通常水酸化ナトリウム等を入れてpH11.0以上の強アルカリ性にしてその分解を防止しているが、pHの低下によっても分解し、酸性が強くなると塩素ガスを発生して失活する部分が増加する(<証拠略>)。

(2) 次亜塩素酸ナトリウムは、pH6.5ないし7.0の状態で分解して発生する酸素によって漂白作用を現わし、また、細菌細胞膜を容易に透過して細胞内のブドウ糖代謝に関するトリオーズリン酸デヒドロゲナーゼなどに作用してその機能を阻害するので、消毒作用がある。この消毒作用や漂白作用を利用して、次亜塩素酸ナトリウムは、飲料水、野菜、果物等の殺菌、消毒、家庭用漂白剤、医療用消毒剤として広く使用されているが、その際には用途によって有効塩素四ないし六パーセントの次亜塩素酸ナトリウム水溶液(次亜塩素酸ナトリウム3.94ないし10.76wt/%を二〇〇ないし六〇〇〇倍に希釈して使用する(<証拠略>弁論の全趣旨)。

(3) 次亜塩素酸ナトリウムは酸、例えば、強酸性のトイレ用洗浄剤などと反応して、塩素ガスを発生させ、これを吸入すると、気道粘膜の刺激、しわがれ声、咽頭部の灼熱感、疼痛、激しい咳などを生ずる。また、次亜塩素酸ナトリウム水溶液のミストを吸入すると、次亜塩素酸ナトリウム水溶液の強アルカリ性と酸化作用により、気道粘膜を刺激し、しわがれ声、咽頭部の灼熱感、疼痛、激しい咳などを生ずる。次亜塩素酸ナトリウムは感作性を有し、アレルギー反応を起こすことがあり、皮膚炎の原因となる(<証拠略>)。

(二) 水酸化ナトリウム(NaOH)は強アルカリ性で生体組織に対して強い腐食作用があり、蛋白質を溶解して糊状とし、脂肪をけん化し、角質も侵す。水酸化ナトリウム水溶液のミストを吸入すると、鼻粘膜の軽い刺激から重症の肺炎に至るまで種々の程度の気道の傷害を受ける(<証拠略>)。

(三) 塩酸(Cl2)は非常に低いpH(2.0以下)でのみ単体として存在し、より低い酸性の溶液(例えば、生体組織など)では急速に次亜塩素酸(Hocl)に変わり、次亜塩素酸は容易に細胞壁に浸透し、直ちに細胞質タンパクと反応してN―クロロ誘導体をつくり、細胞構造を破壊する(<証拠略>)。

2 カビキラーは次亜塩素酸ナトリウムの前記漂白作用を利用して開発されたもので、次亜塩素酸ナトリウムの漂白作用によってカビの色素を漂白し、また、カビキラーに含まれている界面活性剤によって表面の汚れを除去する。そして、次亜塩素酸ナトリウムの分解を防止するため、薬液に一パーセント(wt/%)の水酸化ナトリウムを配合している(<証拠略>弁論の全趣旨)。

カビキラーの薬液は噴霧するたびに特有の刺激臭を放ち、噴霧後も容易にその臭気は消えない。それは通気性の悪い部屋での大量使用を避けるため、次亜塩素酸ナトリウムの持つ臭気をあえて残したことによる。ただ、臭気が強いため、昭和五七年一二月以降は、別紙成分表のとおり、次亜塩素酸ナトリウムの配合の割合を少なくし、香料の配合の割合を多くしている(<証拠略>弁論の全趣旨)。

カビキラーは、風呂場等の広い壁面に発生したカビを効果的に除去するため、当初、噴霧式の容器を採用していた。カビキラーの一回の噴霧量は一平方メートル当たり0.75mlで、標準使用量は一平方メートル当たり一五回である(<証拠略>弁論の全趣旨)。

3 カビキラーの薬液を吸入した場合の急性の症状を明らかにするため、超音波ネブライザーでエアロゾルを発生させ、これをモルモットに吸入させて(六ml/秒の空気流量で直接吸収させる。)、気道抵抗(気道に対する刺激作用の度合)の変化と気道の過敏性の変化を調べるための原告側の実験(以下「本件(一)の実験」という。)及びカビキラーを噴霧したアクリル製密閉容器中にラットを一〇分間曝露させてカビキラーの吸入毒性を調べるための被告側の実験(以下「本件(二)の実験」という。)が行われた(<証拠略>証人内藤)。

(一) 本件(一)の実験では、まず、0.9パーセントの食塩水、0.36パーセント、1.2パーセント、3.6パーセント、10.0パーセントの各次亜塩素酸ナトリウム水溶液をそれぞれ五分間隔で一分間吸入させ、三〇秒後に気道抵抗を測定したところ、次亜塩素酸ナトリウム水溶液の吸入によるいずれの場合も、各モルモットは呼吸困難、不穏状態を呈したが、六匹のモルモット中二匹は1.2パーセント次亜塩素酸ナトリウム水溶液の吸入により気道抵抗が約二倍に、うち一匹は、3.6パーセント吸入でさらに約三倍に上昇した。二匹は、10.0パーセントの次亜塩素酸ナトリウム水溶液を吸入してはじめて気道抵抗がそれぞれ約二倍、約七倍に上昇した。一匹は気道抵抗の顕著な上昇がみられず、一匹は気道抵抗にほとんど変化がなかった(<証拠略>)。

(二) また、0.9パーセントの食塩水、3.6パーセントの次亜塩素酸ナトリウム水溶液またはカビキラーを各一五分間吸入させたところ、3.6パーセントの次亜塩素酸ナトリウム水溶液またはカビキラーを吸入した場合には、吸入開始後二ないし四、五分で各モルモットは咳、呼吸困難、不穏状態を呈した。0.9パーセントの食塩水を吸入した後、五分後、五時間後、一週間後にそれぞれ気道抵抗を測定しても、気道抵抗の変化はほとんどみられなかったが、3.6パーセントの次亜塩素酸ナトリウム水溶液を吸入した場合には、吸入五分後、三匹で気道抵抗が若干上昇し、うち二匹は五時間後さらに上昇した。五分後に変化のなかった二匹も五時間後には約二倍に上昇した。カビキラーを吸入した場合には、吸入直後から五分後にかけて六匹のモルモットのうち四匹の気道抵抗が約二倍、一匹は約六倍に上昇したが、一週間後にはほとんどのモルモットの気道抵抗が吸入開始時の値近くまで下がった(<証拠略>)。

(三) 本件(一)の実験によれば、一定の濃度以上の次亜塩素酸ナトリウム水溶液またはカビキラーのミストを吸入した場合、吸入後数時間は気道抵抗の上昇及び気道の過敏性の上昇がみられるということができる。

(四) 本件(二)の実験では、カビキラー2.2mg/lを噴霧したところ、噴霧直後から三分後にかけて洗顔動作、閉眼の後、全例が鎮静状態となり、その後六例のラット中三例が呼吸促迫が発現し、曝露中右状態が継続したが、暴露後は三〇分までに回復した。また、カビキラー2.4mg/lを噴霧したところ、噴霧直後から目をまばたかせ、洗顔動作を示し、一分後には全例が鎮静状態となり、曝露中右状態が継続し、カビキラー6.6mg/lを噴霧したところ、噴霧直後から目をまばたかせ、閉眼の後二分後には全例が鎮静状態となり、三、四分後には六例のラット中四例で呼吸促迫が発現し、曝露中右状態が継続し、カビキラー7.2mg/lを噴霧したところ、噴霧直後から目をまばたかせ、洗顔動作を示し、閉眼の後、全例が鎮静状態となり、二分後には六例のラット中三例で呼吸促迫が発現し、曝露中右状態が継続したが、曝露後一時間以内には回復した。さらに、カビキラー13.2mg/lを噴霧したところ、噴霧直後から全例が閉眼、鎮静状態となり、二分後には呼吸促迫が六例のラット中五例で発現し、六分後には六例のラット中五例が腹臥状態を示し、曝露中右状態が継続し、曝露終了時点では全例が酩酊状態であったが、一時間後には回復し、その後六時間まで観察したが、異常は認められなかった。カビキラー14.4mg/lを噴霧したところ、噴霧直後から目をまばたかせ、洗顔動作を示し、閉眼の後全例が鎮静状態となり、五分後には呼吸促迫、腹臥状態がみられ、曝露中右状態が継続した。曝露終了時点では全例に流涎、酩酊状態及び体緊張度の低下がみられたが、一時間以内には回復し、その後は異常は見られなかった。そして、以上全例につき一週間後に行われた解剖でも各ラットの臓器に変化は見られなかった(<証拠略>弁論の全趣旨)。

(五) 右によれば、一定の濃度以上のカビキラーのミストを吸入すると、目のまばたき、閉眼、呼吸促迫、腹臥状態、酩酊状態、体緊張度の低下といった一過性の症状が生ずるということができる。

4 ところで、カビキラーのミストを吸入した場合の毒作用の機序につき、原告提出にかかる本件証拠中には次のような部分が存するので、この点について検討する。

(一) 第一に、カビキラーに含まれている次亜塩素酸ナトリウムはpH7.0以下になると、急激に分解が進み、塩素ガスが発生するが、人の気道粘膜はpH7.0前後であるから、気質粘膜に付着した次亜塩素酸ナトリウムはpHが低下して一部塩素ガスとなって吸入され、この塩素ガスが人の気道粘膜を損傷するとの部分が、<証拠略>中に存する。

確かに、次亜塩素酸ナトリウムは不安定な物質で、pHの低下によっても分解し、塩素ガスを発生することは前記認定のとおりであるが、水酸化ナトリウムを入れてアルカリ性にしてあるカビキラーが、人の気道内に進入すると、生体の緩衝作用によってpHが低下するか否かはともかく、仮に低下するとしても、人の血液の正常時のpHは7.40であるから、カビキラーのpHもせいぜい7.0前後に低下するに過ぎない(<証拠略>)。そして、前記認定のとおり、pH6.5ないし7.0の状態では、次亜塩素酸ナトリウムは塩と酸素に分解されること、塩素は非常に低いpH(2.0以下)でのみ単体として存在すること、pHの低下によって次亜塩素酸ナトリウムが分解し、塩素ガスを発生するようになるのは酸性が強くなった場合であることを考えると、前掲各証拠から直ちに次亜塩素酸ナトリウムが人の気道内に侵入すると、塩素ガスが発生すると認めるには十分でないというべきである。

(二) 第二に、気道内は水と二酸化炭素が豊富で、次亜塩素酸ナトリウムはこの水と二酸化炭素と反応して気道内において塩酸を発生させるから、この塩酸により気道粘膜に損傷を与える可能性が高いとの部分が、<証拠略>中に存する。

しかし、右記述部分は、単なる可能性の指摘にとどまっており、これを裏付ける的確な証拠もない。

(三) 第三に、次亜塩素酸ナトリウムはアレルギー性皮膚炎を起こすから、気道内に侵入すれば、アレルギー性の気管支炎または気管支喘息のような症状を起こすのであり、そこに次亜塩素酸ナトリウム以外の物質が侵入すると、アレルギー性の反応を示し、呼吸困難等が引き起こされるとの部分が、<証拠略>中に存する。

確かに、次亜塩素酸ナトリウムは感作性を有し、アレルギー反応を起こして皮膚炎などの原因になることがあることは前記認定のとおりであるが、右は一定の期間皮膚に接触した場合の事例であり、次亜塩素酸ナトリウムが皮膚に接触する場合と気道内部に接触する場合とでは接触の条件が異なる(気道内部に次亜塩素酸ナトリウムが侵入すると、生体の緩衝作用が働く。)から、次亜塩素酸ナトリウムがアレルギー反応を起こして皮膚炎などの原因になるからといって、気道粘膜に付着した場合に直ちにアレルギー性の気管支炎または気管支喘息のような症状を起こすということはいい切れないし、また、次亜塩素酸ナトリウムが気道粘膜に付着した場合、右のような症状を起こすなどを裏付ける的確な証拠もない。

5 カビキラーを使用する際に、使用者が空気中に飛散、拡散したカビキラーの薬液を吸入すると、くしゃみ、咳き込み、気道粘膜の刺激感といった一過性の症状が生ずることがある(弁論の全趣旨)。

また、昭和五八年ころから噴霧式の容器のカビ取り剤を使用した者の中には、使用の際または使用直後に、目や喉の痛み、嘔吐感、発熱、一時的呼吸困難、手足のしびれ、喘息様の症状などを訴える者がいた。その多くは窓やドアを閉め切って換気をしなかったり、マスク等をしていなかったりした場合に起こっているが、換気に努めた場合にも発熱、身体のだるさなどといった症状が出る者もいた(<証拠略>)。

6 噴霧式の容器のカビ取り剤では、室内で使用されることから、薬液を噴霧すると、薬液の一部が空気中に広く飛散、拡散し、これが噴霧している使用者の方向に戻ってくるので、使用者自身が空気中に飛散、拡散した薬液を吸入するおそれが高い。そのためもあって、厚生省の要請により、家庭用カビ取り・防カビ剤等を製造するメーカー二四社が加盟する家庭用カビ取り・防カビ剤等協議会は、昭和六三年一〇月二六日、家庭用カビ取り剤の有効成分、効能表示などにつき自主基準を定め、厚生省は、都道府県、政令市に対し、関係業者に対する指導徹底方を通知した。それによれば、これまでの表示に加えて、換気、容器の注意、眼、口、皮膚への注意、眼や喉が痛くなった場合の対応等の表示を追加するとともに、カビ取り剤の有効成分として、次亜塩素酸ナトリウムは4.0パーセント以下、水酸化ナトリウムは1.0パーセント以下とし、また、容器は消費者が安全に使用できるよう薬液の飛散しにくいタイプ(例えば、泡タイプ)としている(<証拠略>弁論の全趣旨)。

7 原告がカビキラーを使用していた風呂場には廊下側に面して三〇センチメートル四方の窓があるだけで、換気扇は付いておらず、カビは壁面のタイルの目地に発生していた。居間は六畳の広さで、東側に窓が設けられており、カビは居間の北東と南東の角の壁などに発生していた。原告は風呂場でカビキラーを使用する場合には、カビキラーの説明書に書かれているように、マスク、手袋をした上で、カビキラーの薬液をカビの発生している箇所に向けて噴霧し、噴霧後は窓を開けて風通しをよくした上でそのまま放置し、しばらくして噴霧した箇所に相当の量の水をかけた。また、居間で使用する場合にも、マスク、手袋をした上で、東側に面した窓を少し開けてカビの発生している箇所に向けて噴霧し、噴霧後は窓を開け放しにして外に出かけ、帰宅してから噴霧した箇所を二、三回水拭きした。しかし、帰宅時にはカビキラーの臭気はまだ消えていなかった。原告は、居間についてはカビの発生がひどく、カビキラーを使用しても一週間もしないうちにカビが生えてくるといった状態であったため、一週間ないしは一〇日に一回の割合で、風呂場についてはそれ以上の間隔をあけて、カビキラーを使用した。噴霧する量は一箇所につき、五、六回から一〇回くらいで、昭和五八年二月から同五九年三月までの間にカビキラー(五〇〇ml入り)二箱半を使いきった。なお、原告は、カビキラーを使用する際に酸性の洗浄剤などの商品を併用したことはなかった。原告の右のようなカビキラーの使用状況は、カビキラーの使用としては特異なものではなかった(<証拠略>弁論の全趣旨)。

8 原告は、昭和四〇年に肺結核に罹患しているが、喘息等の呼吸器系の持病はなく、喫煙の習慣もない。昭和四七年アレルギー性鼻炎に罹患し、毎年三月ころから五月ころにかけてくしゃみと鼻水に悩まされていたが、他に特に異常はなかった(<証拠略>弁論の全趣旨)。

9 そこで、以上の事実関係を前提に、原告がカビキラーを使用し、その薬液を吸入したことと原告が本件慢性疾患と主張する症状あるいは本件急性疾患(その罹患の有無を含め)との間に因果関係があるか否かにつき検討する。

(一) <証拠略>(意見書)には、次亜塩素酸ナトリウムから発生した塩素ガスによる傷害と原告の症状が同じであること、原告の症状の発症がカビキラーの使用開始と軌を一にしていること、カビキラーのほかにはこれといった原因が考えられないことなどから、タンを伴う咳、咽頭灼熱痛、呼吸困難などの原告の症状を慢性気管支炎であるとし、その原因がカビキラーにあるとの菅医師の意見がある。

しかし、そもそも、前述のとおり、原告が慢性気管支炎に罹患しているとは断定し得ないうえ、原告がカビキラーと酸性の洗浄剤などの商品を併用したことがなかったことは前記認定のとおりであるから、その際に塩素ガスが発生したわけではなく、前記認定、説示のとおり、カビキラーの吸入によって直ちに次亜塩素酸ナトリウムから塩素ガスが発生したともいえない。

したがって、原告が塩素ガスに被曝したということはできず、<証拠略>はその前提を欠くものであり、いずれにせよ、採用することができない。また、<書証番号略>には、本件(一)の実験結果からみて、原告の主張する本件慢性疾患という症状はカビキラーの使用によるものであるかのような記載があり、証人内藤はこれに沿う証言をするが、本件(一)の実験はあくまでも一定の条件のもとでの急性の症状を示すものに過ぎず、また、前記一および二の4における認定、説示に照らしても、たやすく採用することができない。<書証番号略>も塩素曝露を前提とするものであって、同様、直ちに右症状の説明とはなりえない。

(二) そこで、次に原告が本件急性疾患に罹患したのかどうか、及び罹患した場合、カビキラーとの因果関係の有無について検討する。

(1) 前記認定の原告のカビキラー使用状況等によれば、原告はカビキラーを使用の結果、その薬液を反復継続して吸入していた可能性が十分あった。

(2) また、前記認定の事実によれば、本件急性疾患の症状という咳、タン、咽頭部の灼熱痛、息切れなどの一時的呼吸困難はカビキラーの使用時期と軌を一にしているといえなくはない。

(3) そして、本件(一)、(二)の実験結果によれば、一定の条件のもとでカビキラーを吸入したモルモットやラットには急性の呼吸困難ないし呼吸促迫が認められることは前記認定のとおりであり、これがそのまま本件にあてはまらないとしても、カビキラーの使用が、場合により、呼吸困難等を引き起こす可能性のあることは否定できない。

また、一般的にカビキラーの成分である次亜塩素酸ナトリウム水溶液のミストを吸入すると、咽頭部の灼熱感、疼痛、激しい咳などが生ずること、水酸化ナトリウム水溶液のミストを吸入すると、鼻粘膜の軽い刺激から重症の肺炎に至るまで種々の程度の気道の傷害を受けることは前記認定のとおりである。

(4) なお、本件急性疾患のうち咳、タン、咽頭部の灼熱痛、一時的な呼吸困難については、その症状からみて、必ずしも特定の原因によるものと断定しえないことは、前記認定の診断経過から明らかである。

なお、前記認定のとおり、東京医科歯科大学の横田医師は、原告の症状の発症の経緯から、当初はその症状がカビキラーによって生じた急性細気管支炎であるとの疑いを抱いていたことが認められるところ、前記診断等からすると、同医師は原告の気管支に呼吸困難を起こす器質的疾患が発見できなかったことから、原告の症状を統一的に捉え、その原因をカビキラーによる急性細気管支炎と断定することに対して否定的となり、とりあえず原告の呼吸困難の原因として、その可能性が相当高いといえる肥満と更年期障害を挙げ、咳の原因については原因不明のままにしておくことにしたが、カビキラーによる急性気管支炎の疑いを全く否定したわけでもないと考えられる。もっとも、横田医師が作成した<書証番号略>には、原告の傷病名として急性気管支炎と記載されているが、右は原告が保険会社から保険金の交付を受けるために作成された書類に過ぎず、しかも、その原因は不明と記載されているから、右記載をもって、原告の症状がカビキラーによる急性細気管支炎と断定することはできない(<証拠略>弁論の全趣旨)。

(5)  以上によれば、原告はカビキラーの使用に伴い、その薬液を相当程度吸入していた可能性があること、右認定の本件急性疾患の症状の発生と原告によるカビキラーの使用時期とが矛盾しないこと、カビキラーの成分である次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムには本件急性疾患のうち吸入直後の咳、タン、咽頭部の灼熱痛、一時的な呼吸困難という症状を生じさせる可能性のある有害性があることは否定しえないこと、原告の右症状にはこれを統一的に説明できる他の病名も見当たらないこと、原告を診察、検査した医師のうちには、一時的にせよ、本件急性疾患の症状の一部の原因としてカビキラーを疑っていた者もいたことなど前記認定の諸事情の下においては、原告の本件急性疾患の症状をもって急性気管支炎であるとは断定しえないが、そのうちカビキラー使用直後に咳やタンが出たこと、咽頭部の灼熱痛や一時的な息切れないし呼吸困難(すなわち、その後の継続的な呼吸困難を除く。)に陥ったことと、原告がカビキラーを使用したこととの間には因果関係があると認めるのが相当である。

三被告の過失について

1 前記説示のとおり、本件において、原告はカビキラーを使用したところ、その直後にカビキラーが原因で咳が出たり、咽頭部の灼熱痛や一時的な呼吸困難に陥ったりしたことがあったところ、右は単なる一過性の刺激、不快感にとどまらず、健康上の被害というべきである。

2 被告は、家庭用カビ取り剤カビキラーを製造、販売するものであるが、前記認定のとおり、カビキラーの容器は噴霧式であり、そのため薬液の一部が空気中に飛散、拡散し、使用者が薬液の一部を吸入するおそれがあること、カビキラーの成分である次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムは人の気道に傷害を与える有害な物質であること、また、カビキラーは、日用雑貨品として大量に販売され、一般人が日常的に使用するものであることに鑑みると、被告は、カビキラーの製造、販売に当たり、人の生命、身体、健康に被害を及ぼさないよう注意すべき義務を負っていると解するのが相当である。

3  そして、前記二で認定の事実等によれば、被告は、カビキラーの製造、販売に際し、カビキラーが場合によりひとの気道に対して傷害を生ずるなどの健康被害を与えるおそれのあることを予見することは可能であったというべきである。

4 ところで、前記認定のとおり昭和六三年に定められた家庭用カビ取り・防カビ剤等協議会の自主基準は、容器として薬液の飛沫しにくいタイプ(例えば、泡タイプ)とするとしている。これは、噴霧式の容器では薬液の一部が空気中に飛散、拡散するため、使用者が空気中に飛散、拡散した薬液を吸入するおそれが高いのに対し、泡式の容器は、噴霧式に比べると、薬液が空気中に飛散、拡散しにくいことによるものと考えられる。そして、被告がカビキラーの製造、販売を開始した当時、その容器として泡式のものを用いることも十分に可能であったと思われる。なお、カビキラーと同じ成分でアメリカで販売されているカビ取り剤タイレックスには、製品の外箱に呼吸に影響を及ぼした場合の処置や心臓病や喘息のような慢性呼吸器障害、慢性気管支炎、気腫、肺疾患の人は使用してはならないことなどに関する記載があるが、本件で使用されたカビキラーの外箱にはそのような記載はなく、また、カビキラーの外箱に記載される説明、注意書きの内容も販売開始後に変更され、より詳細になっていることも、被告の注意義務の懈怠の有無を考慮するについて参考となる(<証拠略>弁論の全趣旨)。

そうすると、被告は、カビキラーの製造、販売に当たり、少なくとも容器として泡式のものを採用すべきであったということができる。

なお、被告は、通気性の悪い部屋での大量使用を避けるため、カビキラーに次亜塩素酸ナトリウムの持つ特有の臭気を残しているものの、この程度の措置では不十分であるといわざるを得ない。

そして、被告がカビキラーの容器として泡式を採用していれば、前記認定のような原告の使用回数、使用量等によっても、原告がカビキラーの使用直後に前記認定のような急性疾患に陥ることは回避することができたと考えられる。

5  結論

被告は、カビキラーの製造、販売に当たり、右の点の注意義務を懈怠した過失があったものと認められる(なお、原告主張のその余の過失は、本件全証拠によるも認め難い。)。

したがって、右過失と相当因果関係のある原告の損害を賠償すべき不法行為責任がある。

四損害について

1  原告は、カビキラーの使用によって前記認定の健康被害を被ったが、治療費、入通院交通費、入通院諸雑費については、右損害と相当因果関係のある損害といえない(仮にその一部が右の点を理由とするものであったとしても、前記認定のとおり、病名とされた風邪等の診断との区別は困難であるから、これを特定することはできないので、後記慰謝料の算定において考慮すれば足りる。)。

2  休業損害、逸失利益については、前記認定程度の健康被害と相当因果関係のある損害とはいえないから、これを認めることはできない。

3  本件訴訟追行のために用した動物実験(本件(一)の実験)の費用等も、右と同様、理由がない。

4 前記認定の諸事情に鑑みると、原告は、カビキラーの使用によって前記健康被害を被ったことによって相応の精神的苦痛を受けたものと認められ、これを慰謝するには金六〇万円が相当である。

5  原告は、本件訴訟の追行を原告代理人ら弁護士らに委任したところ、弁護士費用のうち本件不法行為と相当因果関係のあるものとしては、金一〇万円が相当である。

五結論

以上によれば、原告の本訴請求は、金七〇万円の支払を求める限度において理由があり、これには、原告がカビキラーを使用したことによって被害を被った後であることが明らかな昭和六〇年一月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を付して支払うことを要する。

(裁判長裁判官浅野正樹 裁判官升田純 裁判官鈴木正紀)

別紙成分表

昭和五七年一〇月から同年一一月まで製造(処方1)

昭和五七年一二月から同六二年一一月まで製造(処方2)

昭和六二年一二月から現在製造中(処方3)

(処方1)

(処方2)

(処方3)

次亜塩素酸ナトリウム

4.00

3.60

3.60

水酸化ナトリウム

0.90

0.90

0.90

界面活性剤

1.00

1.00

1.00

香料

0.01

0.05

0.05

洗浄補助剤

0.00

0.00

1.60

精製水

94.09

94.45

92.85

(単位wt%)

別紙使用上の注意書

・ 換気に注意して使用すること。

・ 天井や高い壁面への使用は直接スプレーしないで、柄付スポンジなどで行うこと。

・ 手袋を着用すること。

・ 酸性の商品と混合すると塩素ガスが発生し、危険なので一緒に使用しないこと。

・ 万一、使用中に気分が悪くなるなどの身体への徴候があったら、作業を中断すること。

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